名古屋での個展に向けて、平面作品を作っています。
キャンバスに油絵、そして・・・陶板です。
以下はNHKのニュースのコピーです。
・・・・・・・・
「子どもたちがいじめに遭わない服」をテーマにしたユニークなファッションショーが5日、アメリカ・ニューヨークで開かれ、いじめに遭わないために自分の存在感を主張するような服が披露されました。
このファッションショーは、ニューヨークを中心に子どもたちからいじめの相談を受けているグループが、デザイナーたちと協力して企画しました。 ショーでは、いじめに遭わないためには男の子も女の子も自分の存在感を主張する服を着ることが大事だとして、およそ20種類の服が披露されました。 このうち女の子向けには、友達の間で話題になるようパステルカラーなどの明るい色でさまざまな素材が使われた服が紹介されました。 会場には、いじめを受けた経験のある子どもたちも招かれ、太っていることでいじめられたという14才の女の子は、「これからは自分の個性を出して、好きな色やサイズの服を自信を持って着たいと思います」と話していました。 アメリカでは、子どもの4人に1人がいじめを受けた経験があるということで、イベントを主催したケリー・デンプシーさんは、「明るい服を着ることで子どもたちは自分に自信が持てるようになるし、いじめられることもなくなると思う」と話しています。
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20140406/k10013536161000.html
・・・・・・・・・
そんな簡単に解決できるはずないって、きっと思うだろう。
すぐに笑うだろう。。
子どもだって、いやがるだろう。
でも、一番だめなのは、教師が「見守りましょう」言葉で逃げてしまうこと。親が、わかっていながら、「様子を見ましょう」ということ。もし、何かあったら・・。どうすんだろう。
私なら、モンスターといわれてもいい。戦うやろうか?できるやろうか・・。でも、何もしないでみているなんて、いやだ。
ファッションショーのデザインがどうとか、そういう話ではない。
「こどもの好きなようにさせている」なんて、だめだ。ろくなことがない。そうやってかっこつけたくない、と、、心では思う。
4月。入学式。新学期。転入生もいるかな。
ドキドキハラハラ。大丈夫かな・・。
楽しいこともいっぱい。
大人も子どもも、がんばろ。ファイト♪
私は「ほめて伸ばす」ってどうかな?って思います。ほめることはよいことです。ほめられるとうれしいです。
一度こういうことがありました。家族で絵を描いていて、主人と私と兄がそれぞれ絵のバランスがよい。バランスがよいとはいえない一番情熱的な次男が描いた絵を 家族みんなでほめました。その絵は、かなり躍動的で、でもバランスは悪く、大胆な配色と表現です。
本心でかっこいい絵でした。でも・・「うまいって、こんな絵じゃないやろ・・」って言った次男の目に涙。悔し涙だったんです。
このドラゴンの絵は、ドラゴンが200匹以上描かれています。
何度かいてもうまく描けない。悔しくて涙。こういう人が良い作品を作ると思う。それで、ほめ方は大事だと感じます。うまく言葉にならなくてもよいし、無理に何かを表現しなくても、認めて、応援することができているでしょうか。そのままの君でよいと、その時に伝えられていたのでしょうか。自信はありません。
小学1年生の時でした。
音楽の先生にはきちんとした音程リズムの違いに厳しく指導するとか、間違いを正すということができます。お絵かき教室の先生をしていると、指導の根拠があいまいで、最近は生徒の要望に合わせすぎて、型を教えず、自由に好きなように描かせることが多いと感じています。わたしが子どものときは、写生やクロッキーが今よりもっと多かったです。
学校の先生なら、それでも良いかもしれない。でも私はプロなので、お金をいただいている以上、児童絵画教室の内容も大学受験に通用していくように指導したいと思う。
「型」の指導なしでは、型破りな絵を描くことすらできないのです。
それでいつも、指導書の中に 学習指導要領のいろんな教科を意識して取り入れることにしています。
国語 算数 理科 社会 家庭科 音楽 英語 体育、すべてが美術と合わせることができる。
美術を勉強することは、大事だということをしっかり説明できるように、後半の人生を生きたいと思う。
(私のささやかな願いです。)
絵を学び、何かを発表するときに、必ずだれにもできない自分だけの世界を展開しなければならない というようなオリジナリティにこだわります。
普通は 人まねをすれば馬鹿にされます。
そのためつねに評価の対象になるのは、オリジナリティである。
オリジナリティこそ価値をつくるとも考えられています。
しかし必ずしもそうとは言えません。
ジャン・コクトーは「私が一番嫌いなのはオリジナリティだ」と言っています。これは、オリジナリティが競争と差別の上ばかりに成立するからです。
それにもっと言うなら、いったいどこからどこまでをオリジナリティーと決められるのでしょうか。
いちがいには・・区切りがつかない。
私は、新しいものをつくるとき「ここにしかないものはない」と思うようにしています。
また、そのようにして、日常を見ています。
子どもの時からお手本がないとできない。何も自分の力ではかけない。そんな子どもでした。
いまなら、それでいいと思える。
芸大生の時からずっと思っていた。
私には強烈な個性がない。
でも、個性っていうのはオリジナリティのことではない
オリジナリティのない私は、主人の技術の「取り合わせ」が新しい作品を作りました。(お茶の世界では「取り合わせ」というそうです。)そのような気持ちでやればいいのだと思います。
一生懸命生きる結果そうなったことが真実です。それが「信」でした。
これが「マエストロ貴古」で学んだことでした。
ここからは長男の話です。
「稽古と練習はちがう。」先代をほうふつさせる、なにかの面影をほうふつさせる。稽古はそういうことで、それがほめ言葉なんじゃないかな。
だから「うつし」でいいのではないのかな。「うつし」という言葉に 日本の文化の秘密があるのではないかな。
私もそれでいいのだと思うようにします。
「神仏たちの秘密」松岡正剛
より
昨日は仕事場の掃除をしていると、スケッチブックを見つけました。今更ながら、広い視野で京都の工芸全般を見ておられたんだと、感銘しました。
三代貴古
「京都は、ほかの工芸品も王朝風の伝統を継承する工芸品が発達し 漆器 京人形西銀織 京友禅等 優れた作品を生み出し続けてきました。
京焼はほかの工芸と比較すると やや遅れて安土桃山時代から江戸初期の時代に誕生しましたが、その契機となったのは当時広く流行していた茶の湯でありました。
これを契機に京焼は発展するのですが 歴史的文化的風土の中で ほかの産地に見られない優美さの追求をするのには まず 原料が出ないため 全国各地の土を集め、いろいろな工夫を重ねて京都ならではの独特の焼物作りに精を出してきました。」
そこから、ものづくりのあるべき姿が書かれていました。
写真は四代貴古の茶壺です。
歴史は作られる。
いつの時代でも、時代に合わせて,変化することができるものこそが生き残る..。
これから、どうあるべきか続きのページを大事にしようと思う。
http://maestro-kiko.com/daimaru2014/
写真にカーソルをあわせると、説明文が出てきます。
FaceBook や ブログは その会社なりの中枢にいて 時間があり その宣伝の意味が分かる人でないとできないものだなあ。。私と主人は二人で作品を作っているので、どちらが上とか、そういう関係でもないし、大きな会社でもないからできることもあるのかもしれませんね。
「ありがとう」という言葉をわすれないようにして、うまく表現したいものです。