オリジナリティについて

絵を学び、何かを発表するときに、必ずだれにもできない自分だけの世界を展開しなければならない というようなオリジナリティにこだわります。
普通は 人まねをすれば馬鹿にされます。
そのためつねに評価の対象になるのは、オリジナリティである。
オリジナリティこそ価値をつくるとも考えられています。
しかし必ずしもそうとは言えません。

ジャン・コクトーは「私が一番嫌いなのはオリジナリティだ」と言っています。これは、オリジナリティが競争と差別の上ばかりに成立するからです。
それにもっと言うなら、いったいどこからどこまでをオリジナリティーと決められるのでしょうか。
いちがいには・・区切りがつかない。

私は、新しいものをつくるとき「ここにしかないものはない」と思うようにしています。
また、そのようにして、日常を見ています。
子どもの時からお手本がないとできない。何も自分の力ではかけない。そんな子どもでした。
いまなら、それでいいと思える。

芸大生の時からずっと思っていた。
私には強烈な個性がない。
でも、個性っていうのはオリジナリティのことではない

オリジナリティのない私は、主人の技術の「取り合わせ」が新しい作品を作りました。(お茶の世界では「取り合わせ」というそうです。)そのような気持ちでやればいいのだと思います。

一生懸命生きる結果そうなったことが真実です。それが「信」でした。
これが「マエストロ貴古」で学んだことでした。

 

ここからは長男の話です。

「稽古と練習はちがう。」先代をほうふつさせる、なにかの面影をほうふつさせる。稽古はそういうことで、それがほめ言葉なんじゃないかな。
だから「うつし」でいいのではないのかな。「うつし」という言葉に 日本の文化の秘密があるのではないかな。

私もそれでいいのだと思うようにします。

 

「神仏たちの秘密」松岡正剛

より

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