京展に出品しています。
京都市美術館
6月11日木曜日まで
月曜日は休館です
マエストロ貴古という名前をつけるとき
四代貴古は京焼の職人の仕事をしっかりと受け継ぐという気持ちがありました。(職人=マエストロ)
私は、この人がいてくれてよかったと心底思ってもらえる人になりたいという気持ちがありました。
そのふたりの想いが「マエストロ貴古」になりました。
私は「こんな絵を教える、このように描こう」絵の指導において何かを強く求めるだけでもなく、
「陶芸はこうあるべきだ」とか、そういう教えでもない。
何かの、誰かの心の支えになれる存在になりたいと強く思ったのです。
ただ、合作で「マエストロ貴古」といっても無名で、
受賞歴もなく、無所属で、師匠をもたない私たちの作品(ふしぎちゃんママ)をいざ作品を発表するとなると・・
なかなか、難しく・・賛否両論、むしろ反対の方が多く、正直困りました。
(人形をとったら入選させてあげる、かわいすぎる洋風のものは困るといった批判は山盛りです。)
それで、「京都陶磁器会館」が一番でした。
自然光がいっぱい入り 天井高く、バス停の前にあり、ガレージもありました。
(初代貴古が発起人の一人でもありました)マエストロ貴古には絶好の場所でした。
五年前はかなり思い切った選択だったのですが、私たちのとって一番の場所でした。
展示方法についても同じです。
今は作品の並べ方や作品展示方法見せ方が、作品と同じぐらい大事になってきています。
でも、やはり作品の力が大事だという気持ちは忘れないようにしています。
また、このような方法も考えてみました。
アクリル板に絵をはさんで、アクセサリーをならべてみました。
「春夏秋冬」
このアクセサリーも陶磁器会館で展示することによって育てていただきました。
綺麗になった陶磁器会館、明後日リニューアルオープンです。
滋賀県にある南郷水産センターに行ってきました。朝早くから場所をとって。
ヽ〔゚Д゚〕丿スゴイ。小さいそうですが、本物です。
中学生なのに、小さな子どもたちに混じって、水着に着替えて本気です。
両手でバッサバッサと捕まえていきます。
早い、うまい、すごいぞ。と思っていたら、すべて買い取るらしく。
こっそり、逃がす。(知らなかったとはいえ、申し訳ありません。すみませんでした。)
なんとか4匹を5分ほどで捕まえていただきました。
気が付けば夕方です。
なんて早い一日。
GW最終日にようやくしっかりと遊びに行くことができました。
楽しいおやすみいただきました。
ありがとうございましたm(_)m
春休み以降、中学生1年生の次男とようやく美術館やコンサートに出かけていく心の余裕が出てきました。
次男は、美術館を素通りするタイプの子どもでした。兄がじっくり観すぎるので退屈だったのでしょう。
昨日アトリエで話しました。
「ぼくな、ピカソの絵わからへん。」
半泣きです。「もっとわからへんのは、その絵を見てなアートやなぁっていう人。もっとわからへん」
それで、
「お母さんも本当のことはわからへんよ。わかったふりする人もわからへん。
お母さんと一緒や。それでいいねん。ピカソもそれでいいってさ。」
ピカソの言葉にもあったのですが、故元永定正氏も仰っておられました。
「抽象画を誰もが理解しようとする。
でも鳥の声は理解しようとはしない。」
ピカソの絵、今すぐわからなくていい。
お母さんもようやく陶芸のこと、最近少しだけわかるよ。
少しだけどね。
中学一年、次男のふしぎちゃんスケッチです。
京都芸術大学入学式
母校です。すばらしいのでぜひ。以下大学のHPよりコピーです。
本日ここに集われた200名の学部生,96名の大学院生のみなさん,入学ならびに進学おめでとうございます。ご臨席いただいたご家族のみなさまにも心よりお祝い申し上げます。また,門川大作京都市長をはじめ,美術教育後援会,音楽教育後援会,美術学部同窓会,音楽学部同窓会のご来賓のみなさまにも,ご臨席いただけましたことに,京都市立芸術大学を代表して深く感謝申し上げます。
四月は花の季節です。新たな人生のステージに立つ人びとをまるで祝福するかのように,花があちこちで開いています。花が気前よく吹雪いています。
人類は太古から花を愛でてきました。お祝い,お見舞い,弔いといった,ひとの生老病死にかかわる行事にも花がいつも添えられてきました。人類最古の埋葬の痕跡はすでにおよそ10万年前のものが確認されていますが,5,6万年前の旧人とよばれるネアンデルタール人の墓には,洞窟で咲くはずのない花々の大量の花粉が見つかっており,花が手向けられた最古の例とみなすことができるといわれています。これには異論もあるそうですが,現生人類としては,およそ1万2000年前にイスラエル北部の洞窟で見つかった埋葬の遺跡が,死者に花を手向けた最古の例となります。遺体の下に,脇に,サルビア属,シソ科やゴマノハグサ科などの花が,まるでベッドのように敷き詰められていたことが窺えます。こうしてひとは,悲しみと弔いの気持ちに美しい形を与え,そのことで心を整えてきました。
あるいは歌。農作業や粉ひき,洗い物,繕い物といった日日の労働のなかでも,その単調な作業にリズムを刻み,勢いづけようと作業歌が歌われました。祭には音頭が,愛の告白には相聞歌が,子どもの養育には子守歌がつきものでした。そういう歌とともに,人びとは心を奮い立たせたり,慰めたりしてきました。
このように芸術の原型となるものは,たんなる飾り物ではなく,ひとの生老病死,労働,愛の交換,子育て……と,ひととしてどれ一つ欠くことのできないことがらに,深くかかわるものでした。ひととしての活動に深くいのちを吹き込むものとしてありました。そういう意味では,芸術は,ずっと人類とともにあった,国家の歴史よりもはるかに古いいとなみだといえます。そして,この,連綿として続く《人類史的》ないとなみに,みなさんもこれから本格的に加わることになります。
芸術は,微かな異変に,あるいは動物の足跡のような些細な痕跡に高い感度で反応する狩猟民族のセンサーにもつながる,あるいは身体をとおして宇宙のリズムに深く感応する巫女のセンサーにまで遠くつながる,人類文化の根幹となる活動です。それはまた,これまで連綿と受け継がれてきた人びとの感受性やふるまいの意味を一つ一つ再発見し,さらにそれらを洗練させてゆくとともに,淀みかけた文化に新しい刺戟をあたえ,それを刷新してゆく,文化の駆動力の一つでもあります。
そういう継承と創造をつうじて,芸術はいつも,文化が生まれいずるその場面に居合わせようとしてきました。だからどれほど修練を積んだとしても,いつも初心者の心持ちから離れることはできません。アーティストは,制作の渦中でつねに「アートとは何か」「創造とは何か」と問いつづけています。その点では哲学の思考に非常によく似ています。
芸術はひとの感性や想像力を豊かにするものだと,よくいわれます。言葉にならないものを表現するともいわれます。けれども,「悲しみ」という言葉が悲しみの感情そのものに似ていないように,言葉もまたわたしたちのもつれた思いや体験に新たな形を与えるものです。そういう意味では,言葉も大切にしてほしいと思います。ただし,できあいの言葉を器用に使えることが大事なのではありません。それよりも,言葉の立ち上がるその瞬間を注視してほしい。意味が,形が,生まれる瞬間を,です。
やなぎみわさんというアーティストがいます。本学の染織科を卒業し,そのあとオブジェ,写真,演劇とその作家活動を広げてきて,美術家として世界的に活躍しておられる方です。その彼女が以前,こう語っておられました。
「経験から学ぶことは大切です。でもそれでは小さすぎるんです。」
みなさんは難関を突破してこの芸大に入ってこられたのですから,すでにある技を身につけ,個性的なセンスやスタイルをいくぶんかは持っておられることでしょう。それをさらに磨くために入学されたわけですが,やなぎさんが言おうとされているのは,自分がこれまで育んできた個性らしきものに閉じこもるな,ということです。それは大切なものだけれど,それは小さすぎるということです。
そのために,芸術を志すみなさんには,一見,芸術とは無関係に見えるような本もたくさん読んでもらいたいと思います。複雑な問題の起こっている社会のさまざまな現場にもできるかぎり居合わせてほしいと思います。ひとのみならず生きものの生死から細胞の蠢きまで,さまざまな〈いのち〉の現場に,そして地域での生活から同時代のグローバルな政治・経済まで,さまざまな〈社会〉の現場に,いつも感度の高いアンテナを張り,想像力をつなげていってほしいと思います。美術館やギャラリー,コンサートホールだけがあなたがたの活動の場所ではありません。芸術が《人類史的》ないとなみであるということは,それがどんな時代にあっても人びとの暮らしの根底で疼きつづけているということだからです。
芸術をつうじて,おなじ時代を生きる人びとの歓びや悲しみに深くかかわるということ,そしてどんな苦境のなかでも希望の光を絶やさないこと,そういう使命もアーティストにはあります。みなさんにはそういう使命の大きさ,重さにあらためて心を震わせながら,学習に取り組んでいただければと願っています。
京都市立芸術大学は,明治13年に画学校として創設された,芸術系大学としては全国でももっとも長い歴史をもつ大学です。135年におよぶその歴史のなかで,京都市立芸術大学は設立当初より,日本の伝統芸術を継承・刷新するとともに,日本の近現代芸術の屋台骨を支え,世界的にも高く評価されるアーティストたちを数多く輩出してきました。その意味では,京都市立芸術大学は,京都のみならず日本の芸術文化のきわめて重要な火床の一つであり,また世界への発信基地でありつづけています。
それに京都という,芸術文化の歴史的遺産に恵まれたまちで学ぶことにはとても大きな意味があります。先に,芸術は《人類史的》ないとなみだと言いましたが,文化遺産の数多くあるまちで学ぶことは,いまあなたがたが生きているこの時代を見るそのまなざしを,遥かに大きなタイムスケールへと拡げてくれます。また,このまちには,そこかしこに職人さんたちの技芸が今も息づいています。その技,その材料や道具の工夫から学ぶ機会にとても恵まれているのです。
京都は文化芸術都市といわれます。それは歴史的文化遺産が多いというだけでなく,産業や観光,宗教や教育,そして地域での暮らしなど,京都市民の日々のさまざまの重要な活動に,横串のように挿し込まれているからです。制作や演奏をつうじて,このまちに活気を与えるのも,大学のみならず,まちに育てられるあなたがたの大切な「お返し」となるはずです。
来週からいよいよ授業が始まります。これからの本学での学びがみなさん一人ひとりの未来にとってかけがえのないものとなることを願いつつ,みなさんへの私からのお祝いの言葉といたします。
平成27年4月10日 京都市立芸術大学学長 鷲田 清一
今日のお煎茶教室は、忘れな草がとてもかわいらしくみえました。
剛和造(四代貴古)
茶壺です。
お菓子は、「花のこみち」
さくら満開の入学式からもう新緑の季節に向かっています。
5月のお茶会。とても楽しみです。
平成27年二条城市民煎茶の会
平成27年5月3日(日曜・祝) 10時~受付2時まで
場 所 二条城清流園 香雲亭
詳しくは、こちらです。